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日本フットサル三国志 第2章 あのチームはどうなった(府中アスレ) その4 フットサルの街府中はどうして生まれたか

フットサルプレイヤーのためのポータルサイト「みんサル」からの記事を転載となります。


 

その4 フットサルの街府中はどうして生まれたか

 

フットサルそのものがある程度認知され、府中アスレも立川・府中と名称変更された今日、フットサルの街府中という言葉自体、引き継がれていくのだろうかと思い、このテーマを取り上げてみることにした。

フットサルの街府中という言葉を使ったのは、「フットサルの達人」というFUTSALNETとストライカーDXの共同編集で発行された学研のムック本の特集ページ、「日本一フットサルが根付いている場所 フットサルの街 府中物語」で登場する。今から14年前の2005年1月発行のことである。ちなみにFUTSALNETとは当時としては日本一のフットサルの情報ポータルサイトであったが、2016年くらいにサービス終了、一方、ストライカーDXもこの春で休刊となってしまい、いよいよ語り部がいなくなることもこのテーマを取り上げた理由である。
この特集では、フットサルの街府中が生まれた要因を3つ挙げている。

1つ目は、府中市には昔、東芝、日立、日本電気といった工場が進出しており、ブラジル人、日系ブラジル人が多く働いていたからである。有名なのはファイルフォックス監督になった眞境名オスカーである。彼らはサロンフットボール、フットサルをもたらした。前回紹介したが、フェニックス、エルマーズなどのサロンフットボールのチームがあり、彼らが臨時のチームで出場したのが府中水元クラブである。
補足すると選手権が始まった6年前の1990年に入国管理法が改正され、日系3世まで就労可能な地位が与えられようになった。この結果、ブラジル、ペルー等の中南米の日系人の入国が容易になり、来日者数が飛躍的に増加した。その労働力の受け入れ先としては、製造業の工場が中心となり、北関東地方、甲信越地方の機械、精密工場、東海地方の組み立て工場などに日系ブラジル人が多く定住するようになった。府中市は当時のその流れの中に位置付けられる。ちなみにフットサルで他の地域で有名なのは、群馬と東海、特に天竜である。

2つ目の要因は、小学校の体育館の開放政策である。元ファイルフォックスの松村栄寿監督によれば、氏がまだ23か24歳の頃(恐らく1983年から84年頃)、少年サッカーチームのエルマーズ(1977年設立)のコーチ達が夜、小学校の体育館でボールを蹴ることからフットサルの歴史が始まったという。その頃はそれがサロンフットボールという意識すらなく、ボールもサッカーボールの空気を抜いて使ったとのことで、それがきっかけで木曜サロンという名前で毎週木曜日に小学校でサロンフットボールの集まりが始まったのだ。それからしばらくして、最初は府中で働く日系ブラジル人は日系ブラジル人だけで大会をやっていたのだが、一緒にやろうということになり、1986年に第1回の府中フットサル大会(当時はサロンフットボール大会)が開催された。

3つ目の要因は、サッカーとフットサル区別なくボールを蹴る楽しみを普及する観点でフットサル大会を取り上げ、府中市(教育委員会)はこの大会を応援、地域のチームと一体となって活動してきたことである。
毎年年1回正月に開催される大会は今年で33回を数え、会場は5つの体育館、少年、壮年、女子などカテゴリーは12、200チームが参加する大会にまで成長した。そして、その運営を任されることになったのが、府中アスレティックなのである。

しかし、筆者はそれだけではないと思っていて、そこにはフットサルというスポーツの特性が影響している。

フットサルは、スペースがない、ゴールが狭い、室内の水平な床面でボールは比較的正確に滑るなどの特性から、空間(スペース)と時間(タイミング)をどうコントロールするか、極めて知的なスポーツである。したがって、プレーヤーは上手くなるためには情報や知識が必要となる。結果、情報源、知識源に必然的にプレーヤーは集まってくる。そこがブラジル人、日系ブラジル人を多く抱え、情報源となる府中市であった。

その象徴的なスポットが府中市にある「とよしまスポーツ」店である。今でこそ、フットサル専門用品の調達には困らないが、当時はペナルティ、トッパー、アンブロなどのフットサルシューズをいろいろ選べる店を探すのは苦労したものだ。しかし、ここは店主の豊嶋文明自ら、ブラジルへ行って仕入れるなど商品も豊富に揃っている。また、自ら府中市のフットサル協会の事務局長を勤めたこともあり、日系ブラジル人をブラジルから呼んだり、逆にフットサル留学を斡旋したりと日本とブラジルのフットサル人材の交流にも力を注いだ。そんなわけで、自然と選手は遠くても足を運び、シューズを求めたり、情報を仕入れたりしたものである。
すでに紹介したチームのほとんどの選手、一度は「とよしまスポーツ」を訪問したのではないだろうか。また、アズー、エスポルチ藤沢の設立に関与した大塚和弘もさかんに出入りしており、中村恭平らとの交流を深め、オスカーが一時期アズーに参加したきっかけにもなっている。実際、中村と大塚はこの頃エフエフアトリエなるフットサル大会の企画・運営会社を設立、フットサルの普及に努めたこともあった。

しかし、情報、知識があっても基礎の技術がなければ上手くはなれない。府中市はヴェルディ、FC東京のJリーグチームの拠点と近かったことも豊富な選手を輩出できた要因と言えるのではないか。とりわけヴェルディ下部組織出身者は多い。それはサッカースタイルがブラジルを源流とした個人技を特徴としていてフットサルに近かったこと挙げられる。実際、三浦知、ラモスらが活躍していた1991年に第1回全国少年ミニサッカー選手権大会(のちにフットサル選手権大会・バーモンドカップ)が開催されたが、その優勝は読売ヴェルディであった。ちなみにその大会の決勝は読売SC対沼津FCで、読売には木暮、沼津FCには小野伸二(のちに浦和レッズ、日本代表)がいた。小野はこの大会で優秀選手に選ばれている。

そんなヴェルディの練習拠点、稲城の読売ランドの山を北もしくは北西に下ると府中、調布、小金井、多摩、八王子などに近いことである。府中周辺、多摩、八王子には上村、鵜飼、下山、伊藤雅範(のちにFC東京、府中アスレティック、デウソン神戸)、久島寿樹(のちにU17サッカー日本代表、カフリンガ)、前田大輔(のちにバンフ東北、カフリンガ)、鈴木隆二(のちにブラジル、ファイルフォックス、名古屋オーシャンズ)、宮田義人(のちに府中アスレティック)らが読売ランドへ通っていたのだ。

一方、読売ランドの山を南もしくは南西に下ると川崎、横浜さらには湘南へと広がる。読売ランドに通っていた湘南の広山と甲斐が出会い、アズーにつながる。また、ウイニングドッグの木暮、小原信也も、中学時代は川崎から読売ランドに通い、ウイニングドッグとエスポルチ藤沢は横浜の練習コートが同じで、お互い切磋琢磨の仲であった。そのほか、川崎から、石塚尊信(のちにカフリンガ)、岩見裕介(のちにファイルフォックス、ステラミーゴ岩手花巻)の名前が挙げられる。

そのエスポルチ藤沢はカスカベウ、ロンドリーナと分かれていったが、結局は、町田市のペスカドール町田、平塚市、小田原市の湘南ベルマーレへと引き継がれていったのである。

最後にもう一つ付け加えるならば、最初に少し触れたがJリーグの存在も忘れてはならない。FC東京、東京ヴェルディ、フロンターレ川崎、横浜マリノス、湘南ベルマーレのJリーグが子供たちに与えた影響は大きく、フットサル選手を輩出するインフラになっている。

さて、今回の写真であるが、府中、ヴェルディを中心とした当時の有名チームの勢力図にしよう。オリジナルの力作である。(笑い)
以上で府中アスレ編は終わる。次回はどんなチームになるだろうか。

 

木暮知彦

みんサル運営会社のピープルスポーツ株式会社社長。1999年の第1回の関東フットサルリーグ、伝説のスーパーリーグの立ち上げなどに関わった。自らはFIRE FOXの代表として、リーグ優勝、フットサル選手権の優勝を経験した。元フットサル日本代表木暮 賢一郎の父親でもある。

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