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フットサル日本三国志 第2章 あのチームはどうなった(ウイニングドッグ) その6 ドッグ、最後の試合

フットサルプレイヤーのためのポータルサイト「みんサル」からの記事を転載となります。


 

 

その6 ドッグ、最後の試合

 

2000年10月、伝説の私的リーグ、スーパーリーグが立ち上がった。参加チームは、エスポルチ藤沢から独立したロンドリーナと府中アスレティック、カスカベウ、ガロ、ウイニングドッグ、プレデターの強豪チームばかりであった。運営は、これら参加したチームで構成するスーパーリーグ運営実行委員会で、リーグの顔にはカスカベウの甲斐がなった。また、実質、運営を切り盛りする事務局にはプレデター塩谷、府中アスレティック中村があたった。また、フットサルの専門雑誌フットサルマガジンピヴォとフットサルポータルサイトのフットサルネットが協力することになった。

コンセプトは、競技フットサルのレベルアップであり、選手の育成、最終的にはプロリーグ設立環境の整備であった。これは、フットサルにのめり込んでいった選手達の素朴な夢であり、目標である。これを選手達自らで達成しようというわけである。今でこそFリーグがあるが、当初からメディアを巻き込み、集客に努めるなど運営にもアイデアを凝らして行うなど協会主導でない自由な運営スタイルを試みたものである。

当時はまだ、室内体育館の確保は難しく、開幕戦は、残念ながら室内ではなく、ミズノフットサルプラザ藤沢の人工芝で行われた。特設の観客スタンドを設け、売店を出す、タレントチームのエキジビジョンマッチを入れるなど、見るスポーツを意識したものとなった。

参加チーム6チームの総当たり1回戦で行われたリーグ戦の最終日は、翌年2001年の1月28日、駒沢体育館で行われた、カスカベウが4戦4勝、2位のウイニングドッグが3勝1敗、カスカベウはガロと、ウイニングドッグはプレデターと対戦、カスカベウが負けるか引き分けるとウイニングドッグが逆転優勝という状況であった。

実をいうと、この試合を最後にウイニングドッグの解散は決まっていた。解散理由は、当時、どのチームも抱えていたチームマネージメント力の弱さであった。1996年の第1回全日本選手権開催をきかっけに様々なチームが立ち上がり、勢いでここまで来たが、いよいよ、リーグの体制が整い、見るフットサルの幕あけが近づいてくると、選手達の技術だけではないクラブとしての運営力が課題になってくる。なぜなら、通年リーグの確立により、チームは継続が前提となり、継続できるチーム運営力が求められるからである。

例えば、すでに紹介したとおり、府中水元クラブとフトゥーロの合体、チーム名を変更してフトゥーロでチームを存続、翌年のスーパーリーグに参入するシャークスのガロからの大量移籍など、合従連衡が簡単に行われていた時代から、代表者、監督、コーチなどの体制強化、契約、経理などのルール確立などが求められる時代に代わりつつあった。また、そもそもプロを目指すのか、アマチュアレベルで楽しくやるのか個人の路線の選択も迫られる時代でもあった。

むろん、ウイニングドッグにおいて、すぐにこのような問題に直面したわけではない。しかし、この大会の前に行われた第6回全日本選手権の予選の関東大会決勝でファイルフォックスに破れ、選手権出場を逃した影響も大きかった。前半で0-5と大量リードされ、後半最初から木暮のパワープレーの奇策に出たが3点を返すのが精いっぱいだった。結局、3-6で実力の差を見せつけられる敗戦であった。このままでは、強くなれないとチーム内に危機感が生まれたことは確かであるし、そもそもプロかアマか個人の選択も迫られた。

結果、それぞれの道を歩むことで、解散に至ったと思われる。

そんな複雑な思いで立ち向かったウイニングドッグのプレデター戦、結果は木暮の3得点、岩田、小原拓也の1得点で、5-2でプレデターを下し、カスカベウ対ガロの結果を待つことになった。その戦いはカスカベウが残り2分まで4-3で僅か1点差のリードと観客を沸かせたが、このまま試合終了、ウイニングドッグは有終の美を飾ることはできなかった。

初回スーパーリーグがカスカベウの優勝で終わった約半月後の2月18日、第6回全日本選手権の決勝戦が同じ駒沢体育館で行われた。対戦カードはカスカベウとスーパーリーグには参戦していないファイルフォックスであった。結果は、4-2でカスカベウが勝利、ファイルフォックスの3連覇を阻止するとともに、自ら念願の初優勝を飾ったのであった。

当時は、全日本選手権のあとには、必ずといっていいほど、チームの合従連衡が起こるが、今回も同様であった。なんと、3連覇を逃したファイルフォックスの主要メンバーの上村、渡辺英、小野、橋田、GK伊藤喜影らが、チームを離脱、フトゥーロを立ち上げた。理由は、日系ブラジル人の起用に関する路線の違いだったという。そして、その影響は同じく解散を決めていたウイニングドッグに影響が及ぶ。ファイルフォックスの監督オスカーとキャプテンの難波田が、ブラジル遠征で一緒だった縁で木暮をファイルフォックスに誘ったのだ。

木暮は、もともとプロ志向が強かったので、この誘いに応じ、ファイルフォックスへの移籍を決めた。あとでわかったことであるが、上村らの移籍は知らなかったという。のちに木暮の盟友岩田もファイルフォックスに移籍、一方、ウイニンドッグ創設の小原兄弟は、一時期ロンドリーナに移籍したが、その後現役を引退した。

こうしてウイニングドッグは、第4回の全日本選手権の挑戦から第6回の敗退までの3大会にわたって、ファイルフォックス、カスカベウ2強の第3極として、存在感を示したが、短い期間でチームの歴史に幕を閉じることとなった。

さて、写真は、第1回スーパーリーグ最終節のウイニングドッグ対プレデター戦の木暮の写真にしよう(ピヴォ提供)。ちなみに、マッチアップの相手は浦安のプリンスと言われた岩本昌樹で2人は良きライバルであった。岩本は昨年8月に引退試合を行ったが、木暮はエキジビジョンマッチに駆けつけている。
さて、第2章 あのチームはどうなった篇はこれで終わりとする。来年は、 いよいよフットサル界はワールドカップの年、そこで、代表物語を書いてみようと思う。ご期待ください。

 

木暮知彦

みんサル運営会社のピープルスポーツ株式会社社長。1999年の第1回の関東フットサルリーグ、伝説のスーパーリーグの立ち上げなどに関わった。自らはFIRE FOXの代表として、リーグ優勝、フットサル選手権の優勝を経験した。元フットサル日本代表木暮 賢一郎の父親でもある。

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