ピヴォ×みんサル

『プレーヤー目線だけでは難しい、ならば……』好きなことで生きるためには?(早稲昭範(WASSE)・テックボール日本代表)【1/2】

2018年11月26日、お台場
(PHOTO,TEXT・佐藤功)

プロサッカー選手の道が閉ざされた時、フリースタイルフットボールと出会う。WASSEこと早稲昭範さんの人生は、そこで大きく変わった。そして今、テックボールと出会った。好きなことで生きていくには何が必要なのか? その何かを、テックボール日本代表が語る。(2018年11月26日収録)

▼サッカーからフリースタイルフットボールへ

――現在、テックボール日本代表の早稲さんですが、ボールを蹴り始めたきっかけはサッカーでしょうか?

早稲 子供の時に公園でストリートサッカーを始めたのがきっかけですね。近所の子供たちが年齢関係なく集まって、公園のベンチをゴールに見立てて自然発生的に始まって、僕もそこに入ってやっていました。本格的にコーチに教えてもらうようになったのは、小学校1年生です。

――ちょうどその頃にJリーグができた世代ですよね。

早稲 そうなんですよ、まさにめちゃくちゃJリーグバブル世代ですよ、小学校3年生ぐらいの頃にJリーグができて。世界のすごい選手が日本に来ていましたけど、一番印象に残っているのが三浦知良選手ですね。(東京)ヴェルディのファンだったんですよ。三浦知良選手のカズダンスを見てかっこいいなって、プロサッカー選手になるという夢を持ちましたね。かっこいい選手を見て育つみたいな感じでしたね。

――そのかっこいい世界に憧れ、目指す世界となっていったわけですね。

早稲 そうです。中学の頃は学校の部活ではなく、神戸FCというチームに所属していました。学校が終ったら50分ぐらいバスに乗って、練習をしてまた帰ってくるという毎日でしたね。

高校は北陽高校(現・関西大学付属北陽高等学校)でした。ポジションは中盤、右サイドや左サイドもやっていましたね。ドリブルが得意だったので、中央突破やサイドから切り込んでいくプレーヤーでした。

僕は絶対にプロになる、なれると思っていたんです。でも成長期で体調を崩したりケガも続いて、3年間中2年間ぐらいプレーできなかったんです。なので、卒業のタイミングでプロは難しくなってまずいなと。僕が中学生の頃にユースがようやくできたぐらいで、高校卒業したらプロになるような時代でしたから、なおさら焦りましたね。でもそれが、フリースタイルフットボールに転向したきっかけなんです。

高校の途中ぐらいからプロになれないと自覚したんですが、とにかくサッカーの仕事がしたい。サッカーのことしか今までやってきていないですし、勉強をおろそかにしたというのはおかしいですけど全てをサッカーに捧げていましたから。これは何とかしないと、と思って自分が好きだったリフティングを極めていくという新たな夢を持ってスタートしたという感じですね。

――元々リフティングは得意だったんですか。

早稲 リフティングで回したりとか、テクニックはできていました。小学校の頃からリフティングは得意で小学校3年生で565回、小学校5年生の時に2,260回しましたよ。

――フリースタイルをご存じだったということですから、その時から知名度はあったということでしょうか?

早稲 全然なかったんですよ。そもそもフリースタイルフットボールという言葉もなかった時代で、街中でやっている人もほぼいませんでしたね。ただ、小野伸二選手がテレビでリフティングをやってたり、ナイキのCMでロナウジーニョ選手やロベルト・カルロス選手がやっていて、それが衝撃的だったんです。

――その後、大学に入学されています。

早稲 フリースタイルフットボールという夢を叶えるためにとにかく大学に行って、在学中死ぬほどフリースタイルフットボールをやってそれで食べていける基盤を作ろうと思って受験をしましたね。フリースタイルフットボール学科があるわけではないんですけど (笑)。

――その大学で、本格的にフリースタイルフットボールを開始されたということですが、どういった活動をされていましたか?

早稲 僕が大学に入るぐらいの時に、『ナイキ・フリースタイルフットボール』という本の第1弾が出版されたんです。写真と映像でプロモーションに使われるみたいなものですね。それを見て、これがやりたかったんだとピンときました。この本に載りたい、どうやったら載れるんだろう、どうやったらフリースタイルフットボールで生活していけるんだろうと調べたら、リフティングのギネス記録保持者で韓国のミスター・WOOという方が所属している事務所を見つけたんです。そこから東京に行って事務所の方にリフティングを見てもらって、OKをいただいて所属させてもらいました。その後、『ナイキ・フリースタイルフットボール』の第4弾に出演することができたんです。

――当時のフリースタイルはどういう状況だったのでしょうか?

早稲 僕が高校の時、『ナイキ・フリースタイルクラッシュ』というリフティングの大会があったんです。でも出てないんですよ、あったことすら知らなかったんです。高校の部活で忙しくて、他のところに出ていってとかは無理だったので。その後、フリースタイルクラッシュをやらなくなったんです。同じナイキが主催する『パナKO』という股抜きしたら勝ちみたいな大会には出ましたけど、それはリフティングじゃなくてドリブルですよね。大学時代は、フリースタイルの大会は全然なかったんですよ。

――海外での盛り上がりはいかがだったのでしょうか?

早稲 日本の方が盛り上がりは上でしたよ。実は、日本はフリースタイル先進国だったんですよ。競技が広まるのも早くてクリエイティブな技も多かったんです。そこから、YouTubeの発展と共に技を共有するようになってweb媒体も出来て、一気に世界のレベルが上がってきたという感じですね。

 

▼業界の仕組みを知る運営目線を持つプレーヤー

――そういった、まだ先が見えない状況で、卒業後はどうされたのでしょうか?

早稲 もちろんフリースタイルフットボール中心に考えていました。でも、やっぱり親にはむちゃくちゃ反対されましたよね。それで食っていけるほど需要はないやろ、そんなバカみたいな夢を追ってないでちゃんと就職をしろと、もうケンカになりましたね。だから対策を練らないといけないと思って、当時フリースタイルフットボールのイベントを催していた広告代理店に就職をしました。そこに所属することで、業界のお金の流れが学べると思ったんです。お金を出してくれるクライアントがいて、予算を誰にどれぐらい支払って、そのからどの程度利益を残せるのかとか、イベント全体の仕組みを把握したかったんですよ。

フリースタイルフットボールがプロ化されているのであれば努力をして技術を上げていけばお金を稼げるかもしれませんが、プロ化もされていないのでプレーヤー目線だけでは難しい。当時フリースタイルフットボールが駆け出しの頃でほとんどお金がもらえない選手ばかりでしたので、本当はどれぐらいの価値があるのか学ぼうと思いました。大会も行われないですしイベントもずっとあり続けるわけでもないので、そもそもの業界の仕組みを理解して自分がどこのポジションで何をすれば仕事を取ってこれるのかを理解しないといけないと思ったんですよね。フリースタイルフットボールから派生するいろいろな業務について理解することをメインに考えて、1年間ぐらいは広告代理店でノウハウを学ばせてもらいました。

――その会社を1年で退職された後は?

早稲 フリースタイルフットボールに関連した会社に誘われて、東京に来たんですよ。でも、僕が入社する時に、諸事情でフリースタイルフットボール関連の事業をしない方向になってしまい、結局その事業自体がなくなってしまったんです。でも、覚悟を決めて東京に出てきた為、トンボ帰りする訳にはいかずグループ会社に転属になりました。ようやく夢がつかめると思ったのに何も知らずにその会社に入ってしまって、フリースタイルフットボールに全く関係ない業務に日々追われて、どうしよう、どうしよう、という感じでしたね。

――今までとは関係のない仕事だったんですか。

早稲 はい、フリースタイルフットボールとは全然関係ない仕事でした。営業だったんですけど、本当に大変でしたよ。同時にフリースタイルフットボールを練習していたんですけど、かなり忙しい状況でしたね。23歳の社会人2年目のド新人で、仕入先と値段交渉をしながら売り先は確定させて契約を取って、テレアポから売買契約書作成まで全部やっていましたから。ミーティングで「なんでできないんだ」ってずっと怒られてましたね。でも、そうしているうちに2、3年でビジネスの論理的な思考を叩き込まれたんです。そこからは、どのタイミングで辞めようかなと考えていたんですよね、フリースタイルフットボールを中心にやっていきたいので。その時にギネス世界記録にチャレンジしませんかという話が来たんです。それが2011年に寝転んで足裏リフティングだったんです。

――名刺にも書かれていますけど、ギネス世界記録を持たれているんですよね。

早稲 ギネス世界記録は2回取ったんです。もうひとつは2017年、ミャンマーで寝転びながらのリフティングです。今保持しているのは2回目のミャンマーで取ったもので、まだ破られていないですよ。

(*参照:ギネスワールドレコード公式サイト)

この最初の2011年のギネスを取った時に会社を辞めたんですよね。そこから自分の会社を作りました。その当時から、フリースタイルフットボールのイベントをしても大手の企業さまから個人ではなく会社として立ててもらわないと仕事を振ることができない、という状況になりつつあったのでその受け皿となる個人事務所を設立しました。最初は某Jリーグチームのホームゲームでのパフォーマンスの仕事でしたね。集客のお手伝いをしたいのでフリースタイルというコンテンツを作ってくれませんか、とアプローチをしました。今もですが、前職の営業でどういう資料があってどういうプレゼンをしてという経験が役に立っています。

――その後、このフットサル台場で勤務となったのでしょうか?

早稲 3、4年ぐらい前からですね。当時、フリースタイルフットボールの練習場所に困っていたんですよね、最近では公園でもボール蹴れないという風になっていますので。どこで練習しようかなと考えていた矢先に、ここで練習をしてもいいよとフットサル台場を紹介していただきました。そこから、フットサル場の仕事を手伝ってもらえないかということで、勤務させてもらっています。受付業務だけでは申し訳ないので、自分で大会や個サルを企画したりスクールを持ったりとかしていました。

支配人を担当することになったのは、2018年の2月です。自分の会社と同じような業務をそのままやればいいという感じだったので、お受けしました、現在はフットサル台場の正社員として支配人を、もうひとつは自分のフリースタイルフットボール関連の会社の社長の2つの仕事をしています。

▼プレーヤとして、テックボールの文化を作る

――では、テックボールとの出会いはそこからなのでしょうか?

早稲 ええ。以前芸能人女子フットサルチームに所属していた菅原佳奈枝さんに、テックボール協会からプレイヤーとして依頼が来ていてWASSEさんもどうですかと話が来たんですね。それで菅原さんと一緒に協会の方とお会いしたところからスタートです。実際にテックボールを体験して、すごいおもしろいなと思ったのがきっかけです。

――現在はフリースタイルフットボールの選手ではなく、テックボールの選手でしょうか?

早稲 両方やっています、フリースタイルフットボールの選手とテックボールの日本代表ですね。この2つの競技は親和性が高いんですよ。イベントでフリースタイルフットボールを披露して、その後テックボールをしています。現リフティング世界記録保持者のフリースタイルフットボール選手が、実はテックボールの日本代表もやっているんです、って言った方がすごいみたいなイメージを持ってもらいやすいかなと(笑)。ギネス世界記録もそうですが、フリースタイルフットボールの方が認知は高いのでそっちをしっかりと見てもらって、その後にテックボールを体験してもらう。それがお客さんの満足度向上にだいぶつながっていると思います。

――フリースタイルの世界を作っていこうとされていた時と同じで、今はテックボールの世界を作っていこうとされているわけですね。

早稲 まさにその通りですね。フリースタイルフットボールを最初にやり始めた時、自分で作った技の名前が本に載っていわゆる教科書として認知された、自分の子供ができたような感覚だったんですよ。そのお金には代えられないものを、このテックボールでも作っていきたいですね。プレーヤー目線と、文化を作っていきたいという運営者目線と相まってやってみたいというのがありました。

まだまだマイナー競技ですので、もちろんそれがお金になるということもないですし、時間と労力を割いてやっていこうという人は少なかったりします。でも、そういったチャンスをもらえるのであれば、お金関係なしで全力でやってみようと。基盤はすでに整っているので、テックボールに賭けてやってみたい。一度きりの人生ですからね。

――では今後の夢をお願いします。

早稲 僕はテックボール日本代表選手としての自負もあってプライドもあって、いつまでもテックボールの現役選手として一線で活躍し続けられるよう頑張りたいですね。また、テックボールにはオリンピックの競技になるという大きな目標があって、日本テックボール協会もそこに対して真摯に向き合って動いているので、オリンピック選手になって金メダルを取りたいですね。新しい夢ができたところですよ。

 

後編→『もっと柔軟に、固定概念を変える』フットサル場が進む道とは?(早稲昭範・フットサル台場マネージャー)

 

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